足音が近づいてくる。あいつだ。上等の革靴が踵を踏み潰した上履きに変わっても、磨かれた大理石の廊下が埃っぽい学校のそれに変わっても、足音だけは昔と変わらない。この保健室に辿り着くまで、あと3秒、3、2、1、予想通り。ドアがガラリと乱暴に開いて、不機嫌な顰め面が現れる。
「おいおい隼人。保健室なんだからもっと静かに入って来いよ」
「うるせーな。保険医らしいこと何もしてねーくせに」
隼人は俺の言葉を無視して、ドカッとソファに腰を下ろす。顔色はいい、体調不良でここにきたわけではないらしい。怪我をしているようにも見えない。よく見ると鞄を持っていた、このまま帰ろうという腹か。
「サボりにも男にも貸すベッドはねぇぞ」
「今日は10代目がいないからつまんねぇ。プリントとか2人分貰ったしもう帰る」
「じゃあ何でここに来るんだよ」
「体育やってるから今出ていくと捕まる」
「あっそ・・・」
以前の隼人だったら、無許可早退を咎める教師を殴るかダイナマイトでぶっ飛ばすかどっちかをして帰っただろう。少しずつ、ほんの少しずつだけれども隼人は柔らかくなっている。もちろんその牙が鈍くなっているわけではない、見えづらくなっているだけで寧ろ鋭さは増しているに違いない。剥き出すことより隠して磨く方が有能であることを覚えたのだ。本人の成長もあるだろうが、回りにいる人間の影響も大きいだろう。そして最も影響を与えていると思われる人物―ボンゴレ10代目候補沢田綱吉は、風邪で学校を欠席していた。
「ボンゴレ坊主を大事にするのもいーけど最低限の授業はちゃんと受けとけよ」
「てめーに言われたくねー」
まぁ、正論だ。否定はしないでおく。王妃に手を出して亡命生活を送るような人間の吐く科白じゃないことぐらいはわかっている。俺が言いたいのは授業をサボるなだとか真面目に勉強しろだとかそういういことじゃない。
間にブランクが横たわっているとは言え、隼人と俺の付き合いは長い。初めて会った時、隼人の身長は俺の腰にも満たなかったように思う。こいつちっこい癖に綺麗な顔してやがる、大きくなったら大量の女泣かしそうだな、でも俺には及ばないだろうけどな!初対面の感想、それだけ。しかしその子どもは、俺の姿を見ると手を振りながら駆けて来たり、髪形を真似たりするようになった。心の中に言葉にできない感情が湧く。経験がないからわからないが、子どもを持つ親というものの気分に似ているかもしれない。
だから、再会した時は素直に嬉しかった。最後に会った時に比べ随分と大きくなった身体よりも、8歳で城を飛び出しこの世の全てを信じず拒絶し行動していた隼人が、心許せる人物に出会っていたことが。沢田綱吉の前で笑う表情は、まるで普通の中学生みたいで、純粋だった。しかし、それは諸刃の剣なのだ。隼人の世界は今、沢田綱吉が全てである。沢田の為に生き、沢田の為に死ぬ。沢田のメリットになるならばどんな行為も厭わない、自分の命を削ることでさえも。大切な存在が大きすぎて、自分を見失う。俺が頭を痛めているのは其処だった。
正直言う。俺は隼人が可愛いのだ。少々難儀な家庭事情を持ちしかもマフィアの世界に生まれ落ちたんじゃあ安寧の人生というわけにはいかないだろうが、それでもできるなら痛みや苦しみから遠い場所に居て欲しい。沢田だって隼人が傷つくのは望まない筈だ。でも俺からは口には出せない。俺がいきなりこんな話をしても反発されるだけなのが目に見えている。なんとかうまく伝えられないものか、考えを巡らす俺の視界に、ふと鮮やかなものが映った。隼人の草臥れた鞄から覗く、カラフルな表紙の本。白が基調の保健室でその色は一際目を引いたせいか、少し興味が湧いた。
「それ、教科書か?」
「あ?ちげーよ、理科の資料集」
「ちょっと見せてくれよ」
「はぁ?」
クエスチョンマークを浮かべながらも、隼人は本を軽く投げてよこした。パラパラと捲って見れば、中身もフルカラーである。惜しみなく盛り込まれているわかりやすい図や写真。随分と恵まれているもんだ、と思う。感心しながらひととおりページに目を通していたが、俺の手はあるページで止まる。紙面に目が釘付けになった。
(これ、隼人そのものじゃねーか)
掲載されている写真は、台風の栄枯盛衰を丁寧に追ったものだった。ぐちゃぐちゃだった雲の塊が、やがてうつくしい渦を巻く。中心にはぽつり、と針で開けた様な穴。ああ、俺の伝えたいことが此処に全部あるじゃないか。
「何にやにやしてんだよ、気味わりーな」
隼人の声で現実に戻る。しかし俺の表情は変わらない。エロ本ならともかく、理科の資料集でにやついているのだから、確かに気味が悪いだろう。でも俺は見つけてしまったんだ、さりげなく隼人に話してやれる言葉を。だから笑いは止まらないのだ。気象学は専門外だが、曲がりなりにも医者という職業なので理系全般の知識は多少ある。
「隼人」
「ンだよ」
「これ、お前にそっくりな」
「っはぁ?」
俺が指差したのは、台風にまだ成りきれない、熱帯低気圧の写真。キャプションがなければ、雲の塊にしか見えない。隼人は意味がわからない、という表情だ。
「それのどこが俺なんだよ」
「不完全な嵐」
「!」
嵐、という言葉を出すと反応した。みるみる顔が険しくなる。
「何が言いてぇんだよ」
声を尖らせ、斜めから見上げる隼人の視線をひょいと流して、俺は淡々と話を続ける。
「知ってっか?台風の中心って快晴なんだぜ。俺も実際見たわけじゃねーけど、すっげぇ綺麗な青空なんだって」
「・・・」
「台風の中心・・・目は、台風の安定期にくっきり出る。台風が1番発達して勢力が安定してる時には、中心に淀みない大空があるってわけだ」
隼人は黙っている。嵐の次に空という言葉を連ねた。俺の話がどういうものか、もう気づいている。そして、俺が何を言わんとしているか、見定めるような視線に変わっている。今度は視線を受け止めて笑ったら、隼人の眉間に皺がさらに追加されていくから可笑しい。
「要するに、だ。空がねえと嵐は発生しねーが、また逆に嵐があることによって見える綺麗な空があるってこった、な?」
語尾に返事を促すようなイントネーションにして、隼人の顔を覗き込む。先程の険しい表情は緩み、きょとんとした表情。瞬きをしながら俺の言葉を脳内反芻する姿はまるで、出会った頃そのままで、懐かしくなる。思わずあの頃と同じ様に、手で頭をくしゃりと撫でた。
「ばっ・・・何子ども扱いしてんだてめー!!」
「照れんなよ」
「照れてねーよ!触んな!!もう帰るっ」
側にあった鞄を勢いよく抱えこみ、来た時よりも数倍大きい足音を立てて隼人は出て行った。残ったのは俺と、相変わらず鮮やかな色彩を放つ本が1冊。
「これ、忘れてるし」
俺は言葉を上手く紡げる人間ではない。でも今話したことは、何らかの形で隼人の胸に残っただろう、それには自信がある。嵐と大空、それはお前とお前が1番大事に想っているひと。空が無くては嵐は発生しない、だけど嵐の発生しない空は無い。どちらかが一方的なのではない、お互いがお互いを失くしては困るのだということ。
もう一度、例のページを開いて、台風の勢力がピークを迎える頃の写真を眺めた。鮮明な目を持ったそれはまるで、中心に存在する1点の空を護るようにも見える。積乱雲の腕を伸ばして、激しい雨や雷と共に空を駆け抜ける嵐。一度思ってしまえば、どうしてもまだ見ぬ新世代ボンゴレファミリーの未来を重ねずにはいられない。
「生き急ぐなよ、隼人」
そしていつか訪れる、終わりの日が穏やかであって欲しい。力を失い、台風と呼ばれなくなった低気圧が太平洋の上空で静かに消失するように、隼人という生命が消える時、その魂が優しく空に抱かれるように。
うまくいきゃあ、その頃俺もきっと空の上。あの世でも嫌がるお前の頭を撫でてやる、そんなことまで考えている俺は、どっかの親馬鹿な門外顧問と大差ないのかもしれない。
Undeveloped willy willy